日清戦争に勝利した明治日本は、伊藤博文内閣総理大臣の下「製鐵所設置建議案」を賛成多数で可決、鉄鋼需要が膨張する中、素材産業の国産化を強く望んだ。明治政府は、筑豊炭田に近く洞海湾に面した八幡村(北九州市)に、官営八幡製鐵所(以下「製鐵所」)を建設した。大島高任の息子の道太郎を「製鐵所」技監に任命、ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社(以下GHH社)に「製鐵所」の設計・施工を発注した。操業にあたり、技術者をドイツや釜石の田中製鐵所より迎えた。当初は相次ぐトラブルにより高炉を休止するが、野呂景義ほか、日本人技術者の手で挫折を乗り越え操業を安定化。創業10年で鋼の生産を軌道に乗せた。「製鐵所」はアジアで成功した初の本格的な銑鋼一貫製鉄所となり、日本経済の礎を築いた。
わが国の産業化は西洋科学のテクノロジーなくして始動せず、素材産業の大規模な増産体制なくして成就しなかった。20世紀と共に産声をあげた本格的な銑鋼一貫製鉄所は、創業10年で事業化に成功。産業国家の歩みにおいて、経済の屋台骨を支える重工業の大きな一歩であった。19世紀末、ドイツより高炉や製鋼の最先端技術を導入し、大量生産を可能とする産業インフラを整備し、科学技術を担う人材を育成し、導入時に直面した様々な生産課題を自らの力で乗り越えた。操業開始から10年という短い期間に、鋼を生産する素材産業を確立し、土木建築、機械製造などあらゆる産業分野において材料、部材の生産加工を可能とした。
旧本事務所(きゅう ほんじむしょ)
官営八幡製鐵所の旧本事務所は、生産設備に先駆けて1899年に建設された。日本と西洋の建築様式が融合した設計で、赤煉瓦造の2階建て、屋根は日本瓦葺きで、中央にドームを配した左右対称の造りである。
日本初の本格的な銑鋼一貫製鉄所の確立をめざし、この旧本事務所において、様々な経営戦略が練られ、重要な意思決定がなされた。建物内には長官室、技監室、顧問技師室などが配置され、「製鐵所」の中枢機能を担っていたことが窺われる。
修繕工場(しゅうぜんこうじょう)
修繕工場は、1900年、GHH社の設計と鋼材を用いて建設された、現存する国内最古の鉄骨建造物。「製鐵所」で使用する機械類の修繕や、部材の製作加工等に使用された。その後、鋼材生産量の増大に伴い3回にわたって増築されたが、世紀を超えてもなお、現役の産業設備として稼働している。
また、創業時に設置された天井クレーンは、メンテナンス作業に現在も使われている。最初に建築された区画の鋼材にはGHH.の刻印があり、後に拡張された区画にはヤワタの刻印の「製鐵所」製造の鋼材が使われている。これらはドイツから日本への急速な技術移転を証言している。
旧鍛冶工場(きゅう かじこうじょう)
1900年、「製鐵所」建設に必要な鍛造品製造を行う目的で、修繕工場と同様に、ドイツのGHH 社の設計と鋼材で建設された鉄骨造の建築。旧鍛冶工場では、大型のスパナ、鏨、ハンマーや機械の架台など、「製鐵所」の建設に必要な鍛造品を製作した。
当初桁行25 m だった鍛冶工場は、1909年、「製鐵所」の第一期拡張工事により、当初の部分と同じ構造を追加し、ほぼ2倍の大きさに増築された。当初鍛冶工場は修繕工場の北側に建設されたが、1917年に現在の場所へ移築され、その後は製品試験所として利用された。時が経つにつれ、用途が度々変化をしているため鍛冶工場や試験所当時の設備は残されていないが、タイル貼りの床は試験所当時のまま残されている。現在は史料室として利用されている。
文化財指定: | 景観重要建造物 |
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所在地: | 〒805-0057 福岡県北九州市八幡東区大字尾倉他 |
Tel: | なし 問合せ先は 北九州市世界遺産登録推進室:093-582-2922 |
Fax: | なし 北九州市世界遺産登録推進室:093-582-2176 |
アクセス: | 最寄駅:JRスペースワールド駅 |
駐車場: | なし |