揺籃期 ものづくりの心と志
侍の科学への挑戦は1840年からの阿片戦争に遡る。この戦争で師と仰ぐ東洋の大国清がヨーロッパの島国に負けた衝撃から始まった。「煙をあげて走る蒸気船と遠くからでも撃てる大砲を持っている。中国でも勝てない相手なら日本はひとたまりもない」。鎖国政策の下、遠洋に出る大型船や武器の製造は厳しく監視されていた。わが国には日本古来のたたらによる優れた鉄づくりの技術があったが、たたら銑は大砲の製造には不向きだった。「清の轍は踏まぬ」沖合に度々出没する外国船に海防の危機感を強めた。欧米列強の海軍力による植民地化を恐れ、長崎の出島に西洋の軍事技術の情報を求めた。それが侍と科学の出逢いだった。
アメリカ合衆国東インド艦隊の浦賀来航に呼応し、幕府は大船建造の禁を解き、鎖国令を撤廃した。海防政策として海軍創設を計画し、諸藩に洋式船の建造を促した。
徳川将軍、海軍創設を図る
1853年 大船建造の禁が解かれる
幕府は西洋の知識を吸収し、防衛体制を整えるため、長崎の地に海軍伝習所(1855年竣工)と長崎鎔鉄所(1861年竣工の洋式舶用機械修理工場。後に長崎製鉄所に改名)の建設を企画した。長崎以外には横須賀に造船技術の拠点を構えることにした。鎖国時代、長崎の出島を西洋文明の窓とし、蘭書を通じ、西洋科学を受容してきたことから、オランダ政府に講師派遣を要請した。
産業日本を志す
1863年「生きた器械になる」という決意で、国禁を犯し、命を賭してロンドンへ渡った長州ファイブと呼ばれる5人の青年(伊藤博文、山尾庸三、井上馨、井上勝、遠藤謹助)がいた。彼らは帰国の途につくと、植民地支配から日本を守るため、産業経済を基盤とした新しい国づくりを決意した。明治新政府において、伊藤博文は総理大臣に、井上馨は外務大臣、井上勝は鉄道庁長官、遠藤謹助は造幣局長となった。山尾庸三は工部卿となり日本の工学教育に貢献した。長州ファイブは明治政府の中枢において明治日本の産業革命を主導した。