日本への旅行を計画中で、みんなとは一味違う所へ行ってみたい人、必見! 来日観光客のほとんどが、京都、大阪、東京といった主要都市へ行きたいと思っていることでしょう。もちろん、それぞれ魅力ある都市ですが、2020年のオリンピックもそう遠くない今、美しい日本の中で一般旅行者が見逃してしまっている場所を探検してみませんか?明治日本の産業革命遺産を訪問してみてはいかがでしょうか?(photo: @tukki_11to17)
日本は、実に様々な点でユニークかつ興味深い国です。文化や習慣、食や伝統、どれをとっても日本に来る十分な価値があると言えますが、最も興味深い点の1つが、産業革命を成し遂げた目を見張るべきスピードとその素地であるといえます。産業化が起こる前の日本は、数百年にわたり、ほとんど変化がありませんでした。徳川幕府の下、厳格な鎖国政策をとっていたのです。他国との関係や貿易が厳しく制限され、外国人の入国がほぼ全て禁止され、一般の日本人の出国も禁止されていました。そんな中、日本はわずか50年の間に鉄道やインフラの整備を進め、大きく技術革新を成し遂げ、本格的な産業経済国へと生まれ変わったのです。
1800年代半ばから日本は、昔の西洋の教科書を頼りにするか、西洋船を模倣して建造するなどして、試行錯誤を繰り返しながら、産業革命に着手しました。日本独自のニーズや社会的伝統にあわせて外来の技術を改変する一方、国内で培われた知識や経験を応用して急発展を成し遂げたのです。中でも最も印象的なのは、日本がこのような大きな変革を全て自前で成し遂げたことです。非西洋諸国として、初めて植民地化や外国からの経済的圧力なしに、自らの戦略によって産業化を達成した国だったのです。
こうした歴史的偉業の証拠として今も残る23の特徴ある構成資産が、世界遺産登録されました。23で1つの世界遺産となり「明治日本の産業革命遺産」という名前です。以下にいくつかのエリアを紹介します。
岩手県は、必ずしも多くの外国人観光客が訪れる観光地ではありません。見どころや体験すべきことは、とても沢山あるのに残念なことです。
釜石には、日本最古の洋式高炉の遺構、橋野鉄鉱山があります。最盛期の橋野鉄鉱山では1,000人もの人々が働き、巨大な水車を用いて高炉に動力を供給していました。
19世紀半ば、鎖国政策による制約のため、橋野鉄鉱山の高炉は、中世の溶鉱炉の設計図やオランダ語の古い技術書を頼りに、試行錯誤を繰り返して建設されました。そうした努力が実を結び、日本の歴史上初めて、一貫した方法による製鉄が始まりました。現在残っているのは、花崗岩でできた、もとの高炉の基礎部分の遺構のみです。
橋野鉄鉱山インフォメーションセンターや鉄の歴史館も是非行ってみましょう。
(Photo by @mado_625)
鹿児島には見るべきものとするべきことがたくさんありすぎて、それだけで1つの記事になってしまいそうです。ここでは集成館事業について紹介します。
800年間に及ぶ島津家の歴史を辿り、島津家が育んだ国際関係が、どのようにして近代日本における産業化の発展へと結びついていったのかを学びましょう。これらの貴重な遺産をお見逃しなく!
1867年に建てられたこの建物には、輸入技術の指導のために招かれたイギリス人技師が滞在していました。また、建物の地下からは、蒸気機関を動力とする日本初の紡績工場の遺構が見つかっています。一層実りある旅にすべく、是非とも現地の世界遺産ビジターセンターへ行ってみましょう。
集成館事業(鹿児島における近代化事業)への給水を制御したスルース・ゲート(疎水の取水口)の跡です。スルース(sluice;オランダ語の「sluis」に由来)とは、水路を意味する言葉で、最上流部にあるゲートで給水を制御しました。1852に建設された関吉の疎水溝は、水車を動かすのに利用されました。現在も、潅漑用水路として利用されています。
(photo by: @dc_dy)
日本は1850年代、オランダ語の技術書を参考に、試行錯誤を繰り返しながら、全国11基の反射炉の建設・運用に成功しました。
旧集成館反射炉跡は、現存する3基の反射炉跡の1つです。
現存する日本最初期の洋式工場の建物で、1865年に完成しました。
オランダから輸入した機械を使用して、ここで金属加工や蒸気機関の修理を行いました。
堅牢な伝統的石積み工法によって1858年に作られた寺山炭窯跡は、驚くべきことに、当時の姿をそのまま残しています。
寺山炭窯は、集成館事業において木炭が不足していたことから、発熱量が高い白炭を生産するために建設されました。
三池炭鉱・三池港でとりわけ興味深いのが、これらの遺産です。互いに極めて近いところにあるにも関わらず、ふたつの県・市にまたがっています。これらの貴重な資産をお見逃しなく!
宮原坑と万田坑の両方で見られるのは、赤煉瓦が美しい明治の産業用建造物と、その横に立ち並ぶ金属製の機械群です。どちらの場所にも当時の機械類が残されており、鋼鉄製の櫓が高くそびえる竪坑も残っています(最初の写真参照)。1910年、万田坑では、英国から輸入した蒸気ポンプや巻揚機、通気用機器が稼働、当時の最高の技術が集結していました。
(photo by @kumamotototheworld)
万田坑と同様、宮原坑でも、美しい赤煉瓦づくりの建物が人目を惹きます。
1900年代初め、宮原坑は、世界でも最新鋭の強力なポンプ設備を誇っていました。
石炭の生産・流通は、のどかだった日本の田園風景を、近代的な景色へと一変させましたが、石炭の大量流通には鉄道と電力が必要でした。
三池炭鉱専用鉄道は、坑口と三池港とを結び、大量の石炭を迅速かつ安定的に輸送して、石炭流通を支えました。
三池港は、最先端の電化された港として、また、三池炭鉱から産出される石炭の積出港として建設されました。長い防砂堤を組み合わせた「ハミングバード(ハチドリ)」型の設計により、水深の浅い有明海の砂泥が航路に流入しないように工夫されています。大きな外港と内港を特徴とし、水圧式閘門によって内港の水位が保たれるため、大型船の入港が可能で、干潮満潮にかかわらず機械で石炭の積込ができました。
(photo by @omutaboy1961)
九州の北西岸に位置し、大きな天然の良港を抱える長崎は、活気に満ちた、魅力的で美しい都市です。
スコットランド出身の商人、トーマス・B・グラバーは、船舶、機械類、武器の輸入を手がけ、日本の産業化に重要な役割を果たした人物です。1863年に建設された旧グラバー住宅は、英国のコロニアル様式と日本の伝統的建築が融合した和洋折衷の建築物です。美しい長崎港が一望できる敷地に建つグラバー住宅は、現存する日本最古の木造洋風建築です。
(Photo by: @spectraleks)
当時のアパートの再現やビデオ、バーチャルリアリティ(VR)による軍艦島探検など、インタラクティブな展示を通して、端島炭鉱(軍艦島)の歴史が学べます。英語の音声ガイドも用意されています。
ミュージアムについて詳しくは公式ウェブサイト
https://www.gunkanjima-museum.jp/をご覧ください。
長崎市から約15 kmのところに、端島炭鉱(軍艦島)はあります
かつては世界一人口密度が高い場所であった軍艦島。しかし、この人工島は、1974年の閉山後は廃虚となっています。現在、この島を有名にしているのは、自然以外には動くものの気配すらない、がらんとした無人のコンクリート建物群の印象的な姿でしょう。
端島の通称として有名な「軍艦島」という呼び名は、そのシルエットが軍艦に似ていることから付けられたものです。
(photo by @adventure.with.ana)
1810年、この地域で石炭が発見されると、小規模な採炭が始まりました。しかし、1890年、三菱社によって買収されると、端島では、日本で初めての広範かつ大規模な石炭の海底探査が始まります。石炭生産の成功により、端島は、大きさ(35%以上拡大)、人口(1960年代には最大5,300人の住民を抱え、当時の東京の人口密度の約9倍)ともに急激に増大しました。1916年になると、小さな島で沢山の人々が居住・生活できるように、日本で始めての鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅が建設されました。これらの建物は現在も残っています。
(photos by @never_stop_exploriiing)
当時のアパートの再現やビデオ、バーチャルリアリティ(VR)による軍艦島探検など、インタラクティブな展示を通して、端島炭鉱(軍艦島)の歴史が学べます。英語の音声ガイドも用意されています。